子ども『おみせやさん』をしました

今日、
まさき児童館にて、わたしが講師をしている
ちょっきんクラブ(工作教室)の子どもたちによる
”おみせやさん”が行われました。


午前中は、看板作りをしました。
ここは、「にがおえやさん」


ここは、「スーイシ」やさん?
「スイーツ」やさんの間違いでは?


「アクセサリー」やさん


「くじびきや」さん


この写真では、店員が3人いるんだけど、
のちに、男の子一人ががんばるはめになる・・・
(女の子たちは、この男の子が儲けたお金で、
他のお店にショッピングにでかけてしまうのであ〜〜る。
しかし、彼は、彼女たちの喜びになっていると思い
激務なのにがんばるのであ〜〜る。



「ざっかやさん」


お客さんへの説明もうまい!


「キラキラくじびきやさん」



くじを引いたら、豪華景品があたりま〜〜す。
当たったらすずも、鳴らしていました。


最年少1年生男子でつくった、「おもちゃやさん」


今回で一番高額だった「9000円」の商品をお買い上げになった
お客さんと、その商品”ロボコン


結構、販売するのが板についてきたU君


似顔絵屋さん、頑張って書いてます。


衣装からつくりました。この衣装、このお店屋さんだけで、
終わったら着替えて帰るのかなっておもったら、
「このまま家に帰りたい」というので、このままの衣装で
家に帰られました。(ちょうど台風で雨降ってたからよかったかも)



悪天候だったので、客足は伸びないかなって思っていましたが、
予想を反して、たくさんのお客さんが来てくださいました。

それもそのはず、
後から、子どもたちに聞いてみると
自分の親はもちろん、
おじいちゃん、おばあちゃん、
そして、クラスメイト、遊び仲間と
幅広く声をかけたそうだ。

そして、
前日は、夜中まで商品を作っていた子もいたそうです。。。

自分が住んでいる地域で、
子どもが主体的にやると、こんなにたくさんの人が来てくれるのか!!!!!
と、驚きの1日でした。

とりとめのないこと

「優秀な遺伝子」ってものは無いんですよ
あるのは「ある特定の環境において、有効であるかもしれない遺伝子」です

遺伝子によって発現されるどういう”形質”が、
どういう環境で生存に有利に働くかは計算不可能です。
例えば、現代社会の人類にとって「障害」としかみなされない形質も、
将来は「有効な形質」になってるかもしれません。
だから、可能であるならばできる限り多くのパターンの
「障害(=つまるところ形質的イレギュラーですが)」を抱えておく方が、
生存戦略上の「保険」となるんです


上記は、ある日の知恵袋のベストアンサーですが、
これは、本当のことを言っているのかもしれないという
出来事がわたしのもあったので、
忘れないように記載して思うと思います。


わたしが代表を務めている団体があります。
そこで、
ある問題がおこりました。
その問題を解決するためには
わたしだけではだめだと思い、
立会人を仲間に募集したところ、
特に男子に来てほしかったのですが、
自ら手を挙げてくれた男子は、
その・・・A君だけでした。

たぶん、
頭の回転の速い者にとって、
今回の件は、あえて問題の中に入っていくようなものなので、
できれば避けて通りたい
自分から火の中に飛び込んでいこうとはしない。

だけど、
A君は、それでも、自ら火の中に飛びこんでくれることを選んでくれた。

他の人に言わせてみれば
「なんの立会だかわかってなかったから、A君は手を挙げたんでしょう」
と言われました。


そうかもしれません。

だけど、
あの時、必死に誰か立会人を探している中、
誰も手を挙げてくれない時に、手を挙げてくれたのは、
わたしとしては、大変うれしかったことです。



なにがいいたいのか。。。

つまり、
いろいろな物事を何でもわかってやれる人だけでは、
社会は回っていかないということ。
時には、
(いい言葉がわからないのですが)
物事がはっきりわからない人も、社会に存在していなければ、
うまく回らないこともあるっていうことです。

社会がうまく回っているのは、知恵が働く人だけではなく
働かない人もいる必要があるということ。
(うまく言えません。。。語弊を感じている人がいればごめんなさい)

そう考えていくと、
そのままのものが、(その人のそのままが)
社会に認められるようにしたほうがいい。

皆さんの意見はどうでしょうか?

いいなと思った言葉

下記の文章は、
中村さんの文章ですが、
大変いいと思ったので、ブログにのせておきます。


それは1人ひとりが本当に信頼される大人になること、
それにはただ「実行」すること以外にありません。
とはいえ子どもたちだけでなく
、私たち大人も人生という修行の道中と思えば「未完成」という点ではみんな同じ。
そう思えば世界はもっとや優しく、
そしてお互いの成長を願い小さな成長を喜び合えるようになります。
そんなつながりの中ではきっと人の良いところ
、自分の良いところ、
いろんなことに気づいて枝葉を伸ばしていけるのかもしれません。
自然が教えてくれるもの、その中には本当に大切なメッセージがあると思うのです。

子どもとの人間関係のとりかた

久しぶりのブログ

たくさん、言いたいこともたまってきた。


子どもたちとの人間関係の作り方

ワンネスができてウエイネスへ
ワイネスとウイネスができてアイネスへとなる。

ワンネス
子どもの世界を子供の目で一緒に見るということである。
つまり、
こどもをわかろうと思って接し、対話せよということである。

子どもをわかるためには、
①特定の価値観に固執しないこと
②自分の体験を豊富にすること


この2点を、自らが鍛えることである。

ウイネス
これは、子どもの足しになることを何かする。

実現するために3つの条件
1つ
見る能力があること
物理的にその子がそこにいることに気づくこと

2つめ
よいところをほめられること
ほめ上手のポイント
複数の観点をもっていて、リフレーミングできていること

3つめは、体を張って何かしたほうがいい時に実際にアクションを起こすこと


これら、ワンネスとウイネスができて
アイネスがいえる。

「私には私の考えがある」
自己開示「私はこう感じる」
     「私はこう思う」
と自分を語ること

自己主張「こうしてほしい」「ああしなさい」と指針を示すこと

信頼できない大人がいくら子供に「私はこう思う」
といったところで、うるさいだけのことである。

ということで、
子どもと向き合うときには、
ワンネス、ウイネス、アイネスの3つの実践が大切である。。。

朝日新聞 教育について話そう〜から抜粋

大勢の生徒が、同じ場所に集まって、
静かに先生の話を聞いて、それを覚える。

このやり方は、おそらく有史以来変わっていません。
でも、伝達技術が進歩して、必要とされる知識も変わった現在は、
そのやり方自体を見なおすいい機会だと思います。

いま学校で教えている知識は、すべてネット上に存在します。


この時代の学校や塾の存在理由は、知識ではなく体験になるはずです。

知識の暗記ではなく、
知識の海を泳ぐ技術、
さまざまな体験、
そこからもたらせる経験、
そして多くの人と力を合わせる技術を教えてほしいなと思います。

いい意見ですね。

佐村河内さんだけが、原因じゃない。

佐村河内さんの曲が他の人が手掛けたとして、大変な騒ぎになっている。

一方的に、佐村河内さんが悪いようになってきているのだが、
一石投じたいと思う。

「HIROSHIMA」が核兵器根絶の願いをこめて作られた曲として
演奏していたのだが、そうでないとわかって、演奏しないといっている楽団。

確かに、そうなのだが、
では、大昔の作曲家が作った曲に、すべてのストーリーが正しくあっていると思って
演奏しているのか?
と、逆に問いたい。


音楽ではないのだが、
たとえば、美術において、
ちょっと主説があって、ちがう説が流れたという件で言うと・・・

よく名の知れた、ゴッホ
近年、ゴッホは、自分で耳を切ったのではなく、友人ゴーギャンに切られた。
という説が流れているのだが、
ゴーギャンが耳切ったから、このゴッホが描いた、「耳なしの自画像」を
もう、価値がないとみなすのか?
http://www.art-library.com/gogh/bandaged-ear.html

芸術というものは、そんなものではないと思う。

音楽に関しても同じことは言えると思う。

その曲がいいと思ったから演奏したのではないか。
それが、作曲者が違う。そして意味合いが違うからといって、
もう、演奏するに値しなくなっちゃうのだろうか。

もしも、もしも、たとえばの話、
さきほどの自画像が、「実はゴーギャンが描いたんだってさ」
と新事実発覚というニュースがこれから出たとして、
さあ、この絵の価値がなくなるのだろうか・・・。


もう一点、
障害を持っているからということで、評価をプラスしてしまっているところがある。
芸術点をみないで、その人の生きざまが、苦労しているからとか
一般人にはできない困難を受けている人生だからとか
そういったところで、曲を買っているところもある。

残念だが、やはり、
その音楽だけではなく、なにかのストーリー性もその音楽に加われば、
鬼に金棒みたいなもので、
この人が苦労して作った曲なのだ・・・というものは、
大いにその曲の付加価値を高めてしまう。

逆にいえば、
そんな「こわり」がないと、もう、日本国民は、
曲を選べられなくなっているのか。。。
自分がいいと思った曲を、自信を持って選ぶことができなくなっている。
世間の注目度や、その作家のネームバリューなどで、
判断している。。。。


わたしも、芸術科の教科を指導している者として、
自分自身にも戒めなければならない。
ついつい教科書の注釈や解説を、生徒にも教え込まそうとしている。
そうではなく、
つかまなければいけないのは、
ある作品を見たときに、
「自分自身がどう思うのか」
「その思いを、その人自身がきちんと表現すること」

を、重要視しなければならない。

先日も、中世ヨーロッパの絵画を、生徒に鑑賞として、見せたのはいいのだが、
だんだん知識披露オンパレードになってきて、
自分でも、これはいかん!と思った。

案の定、生徒たちは、テストでは、覚えた事を生徒は書いてくれたのだが、
わたしは、振り返って考えると、知識を覚える鑑賞の授業だと、
その場だけで終わってしまって、
生徒にとって、これからの将来、なんの糧にもならない授業をしてしまったと
後悔している。
中学生までは、やはり、しっかりとした自分の見方の基盤を作る時期だ。
絵画知識やそういったものは、大学になって、美術の方向に進んだ時に習得していっても
ぜんぜん遅くない。
(おっと、脱線・・・ごめん。)


話は戻って
佐村河内さんだけが、悪いんじゃないと思う。
そして、新垣さんが悪いんじゃないと思う。
ではだれか?
わたしは、
佐村河内さんは、そうでもしなければ、いや、そうしたほうが、
曲が売れるということをよくわかった人だったんだと思う。

では、そういう曲が売れる世の中にしてしまったレコード会社が悪いのか?
そうではないと思う。
レコード会社は、そんなストーリー性がないと売れないということで判断してしまっただけ。
では、だれ?

やはり、
原因は、国民一人一人だと思う。

純粋に音楽を聴いただけで、
何の付加価値もなかったら、「いい」と判断できなくなってきた感受性。
音楽ではなく、作曲者の知名度や、世間での受け入れられ度。
そういったものがないと判断できなくなってしまった乏しい感性。

ぜひ、この事件をきっかけに、みなさん、
「芸術とは、なんぞや。」と、問いかけてみてください。

私自身も、見直します。

同じような特性でも・・・

地元の放課後児童教室に造形の指導員としていっている。
そこに、K君がいる。
K君、小学校2年生。
彼は、教室で自己を押し通そうとするのが強く、
つくるものが、まとまらないことが多い。
どうも、彼は、物を作る時、
見本になるようなものがないと、イメージを作りにくいということが
わかってきた。
先日は、
木端を用意して、「どのようにみえるかな」
と問いかけて、
子どもたちが、木端を組み合わせて感じるイメージを
いきものだったり、建物だったり、ロボットだったり、家具だったり
限定せずに作ってもらった。
ただ1人、K君だけが、
イメージを固めることができず、
ボランティアの方から、
「もうすぐ、K君、切れちゃうわよ。注意してみにいって」
といわれて、様々な大人が、立ち替わりいれ変わり、
彼に声をかけて行った。
すると、時間が終わるぐらいには、
大きな角材を5・6本選んで、パルテノン神殿でも作るかのごとく
大きな平板も選んでいた。
私たちは、
「あ〜これで、来週、K君は、切れることなく作ることができそうだね」
と言って胸をなでおろして帰って行った。

今日、
公民館に行った時、館長さんから
「K君は、自分の言いたいことだけを言うけれど、
それが、3・4年生になるまでに、そうね、ギャングエイジになるまでに、
落ち着いてくれれば、
たとえば、
「○○さ〜〜ん」と相手に愛情持って名前を呼ぶようになっていてくれれば
彼の特性は、周りに愛される味のある子供に育っていくわよ」

と言っていた時・・・


突然、
公民館に、50代ぐらいのオジサンが入ってきて
「中学生に光合成の話をしてやったけど、あいつらはぜんぜんわかっとらん。
お前らも、(わたしたちのことを指して)俺の光合成の話をしてやっても
わからんやろ。」
と入ってくるなり、なぞな話をしてきて
「俺は、7年前は、こんなにいい体格やったのに、いろいんないやなことをされて、
こんなに痩せてしまって、これ見てみろ(自分の写真を見せる)
こんなに太っとたんだぞ」
といってきた。

なにかと場を、濁して、オジサンは帰って行ったのだが、
館長が
「あの人も、自分の言いたいことだけを言う人になっちゃった。
頭がいいのに、かわいそうな人よね。」
といわれた。

わたしが、
「あの人も、K君ぐらいの若い時に、みんなに分かってもらっていたらよかったですね。」

「そうよね・・・」

といって、わたしは公民館から帰った。

帰りながら思った。
小学生のK君と、50代のこのおじさんの違いは、
特性的には、似たようなものを持っているのだが、
違いは、K君は、「子ども」おじさんは、「大人」ということが
とても大きな違いだと思う。

そして、
K君の特性を、現在、少なくともこの地域の人たちで、
分かりあおうとしている。
その上、K君にとっていい手法を、教員ではなく、地域の大人が
考えてあれやこれやアイデアを出して行っているところが違う。

大人になってしまったおじさんに、
地域の人が、あれやこれやとアイデアなんか出さない。
あえて、おじさんが問題行動をして地域に支障が出てしまえば、
考え出すかもしれないけれど、
自分のことばかり言っているオジサンのことについて、
K君ぐらい、地域の人が考えるということは、まず、ないだろう。

そして、おじさんはこの地域から孤立していく。。。。


そういうことを踏まえると、
どれほど、
子どもの時から様々な年齢層を含んだ交流が重要なのかが分かる。
この地域に生まれ育っている子どもたちが一体どういう特性を持った子どもたちなのか
それを、同じ地区の大人たちは知るべき、いや、知っておかなければならない。

K君が、学校を卒業してしまって、
この地域に社会人になって暮らしていくようになったとき、
彼の特性を分かったご近所さんがいた方が、彼は暮らしていきやすい。

生きづらさは、彼自身がつくっているのではなく、
身近な人の無関心から、生きづらさは生じてくるものだ。
地域の中で、交流するだけでも、生きづらさは、緩和されていものではないだろうか。

それは、そういった特性をもつ子どもに関わらず、
どんな人も、地域の人に自分を知ってもらうことは、
安心して暮らせる根幹となりえるのだと思う。