佐村河内さんだけが、原因じゃない。

佐村河内さんの曲が他の人が手掛けたとして、大変な騒ぎになっている。

一方的に、佐村河内さんが悪いようになってきているのだが、
一石投じたいと思う。

「HIROSHIMA」が核兵器根絶の願いをこめて作られた曲として
演奏していたのだが、そうでないとわかって、演奏しないといっている楽団。

確かに、そうなのだが、
では、大昔の作曲家が作った曲に、すべてのストーリーが正しくあっていると思って
演奏しているのか?
と、逆に問いたい。


音楽ではないのだが、
たとえば、美術において、
ちょっと主説があって、ちがう説が流れたという件で言うと・・・

よく名の知れた、ゴッホ
近年、ゴッホは、自分で耳を切ったのではなく、友人ゴーギャンに切られた。
という説が流れているのだが、
ゴーギャンが耳切ったから、このゴッホが描いた、「耳なしの自画像」を
もう、価値がないとみなすのか?
http://www.art-library.com/gogh/bandaged-ear.html

芸術というものは、そんなものではないと思う。

音楽に関しても同じことは言えると思う。

その曲がいいと思ったから演奏したのではないか。
それが、作曲者が違う。そして意味合いが違うからといって、
もう、演奏するに値しなくなっちゃうのだろうか。

もしも、もしも、たとえばの話、
さきほどの自画像が、「実はゴーギャンが描いたんだってさ」
と新事実発覚というニュースがこれから出たとして、
さあ、この絵の価値がなくなるのだろうか・・・。


もう一点、
障害を持っているからということで、評価をプラスしてしまっているところがある。
芸術点をみないで、その人の生きざまが、苦労しているからとか
一般人にはできない困難を受けている人生だからとか
そういったところで、曲を買っているところもある。

残念だが、やはり、
その音楽だけではなく、なにかのストーリー性もその音楽に加われば、
鬼に金棒みたいなもので、
この人が苦労して作った曲なのだ・・・というものは、
大いにその曲の付加価値を高めてしまう。

逆にいえば、
そんな「こわり」がないと、もう、日本国民は、
曲を選べられなくなっているのか。。。
自分がいいと思った曲を、自信を持って選ぶことができなくなっている。
世間の注目度や、その作家のネームバリューなどで、
判断している。。。。


わたしも、芸術科の教科を指導している者として、
自分自身にも戒めなければならない。
ついつい教科書の注釈や解説を、生徒にも教え込まそうとしている。
そうではなく、
つかまなければいけないのは、
ある作品を見たときに、
「自分自身がどう思うのか」
「その思いを、その人自身がきちんと表現すること」

を、重要視しなければならない。

先日も、中世ヨーロッパの絵画を、生徒に鑑賞として、見せたのはいいのだが、
だんだん知識披露オンパレードになってきて、
自分でも、これはいかん!と思った。

案の定、生徒たちは、テストでは、覚えた事を生徒は書いてくれたのだが、
わたしは、振り返って考えると、知識を覚える鑑賞の授業だと、
その場だけで終わってしまって、
生徒にとって、これからの将来、なんの糧にもならない授業をしてしまったと
後悔している。
中学生までは、やはり、しっかりとした自分の見方の基盤を作る時期だ。
絵画知識やそういったものは、大学になって、美術の方向に進んだ時に習得していっても
ぜんぜん遅くない。
(おっと、脱線・・・ごめん。)


話は戻って
佐村河内さんだけが、悪いんじゃないと思う。
そして、新垣さんが悪いんじゃないと思う。
ではだれか?
わたしは、
佐村河内さんは、そうでもしなければ、いや、そうしたほうが、
曲が売れるということをよくわかった人だったんだと思う。

では、そういう曲が売れる世の中にしてしまったレコード会社が悪いのか?
そうではないと思う。
レコード会社は、そんなストーリー性がないと売れないということで判断してしまっただけ。
では、だれ?

やはり、
原因は、国民一人一人だと思う。

純粋に音楽を聴いただけで、
何の付加価値もなかったら、「いい」と判断できなくなってきた感受性。
音楽ではなく、作曲者の知名度や、世間での受け入れられ度。
そういったものがないと判断できなくなってしまった乏しい感性。

ぜひ、この事件をきっかけに、みなさん、
「芸術とは、なんぞや。」と、問いかけてみてください。

私自身も、見直します。