同じような特性でも・・・

地元の放課後児童教室に造形の指導員としていっている。
そこに、K君がいる。
K君、小学校2年生。
彼は、教室で自己を押し通そうとするのが強く、
つくるものが、まとまらないことが多い。
どうも、彼は、物を作る時、
見本になるようなものがないと、イメージを作りにくいということが
わかってきた。
先日は、
木端を用意して、「どのようにみえるかな」
と問いかけて、
子どもたちが、木端を組み合わせて感じるイメージを
いきものだったり、建物だったり、ロボットだったり、家具だったり
限定せずに作ってもらった。
ただ1人、K君だけが、
イメージを固めることができず、
ボランティアの方から、
「もうすぐ、K君、切れちゃうわよ。注意してみにいって」
といわれて、様々な大人が、立ち替わりいれ変わり、
彼に声をかけて行った。
すると、時間が終わるぐらいには、
大きな角材を5・6本選んで、パルテノン神殿でも作るかのごとく
大きな平板も選んでいた。
私たちは、
「あ〜これで、来週、K君は、切れることなく作ることができそうだね」
と言って胸をなでおろして帰って行った。

今日、
公民館に行った時、館長さんから
「K君は、自分の言いたいことだけを言うけれど、
それが、3・4年生になるまでに、そうね、ギャングエイジになるまでに、
落ち着いてくれれば、
たとえば、
「○○さ〜〜ん」と相手に愛情持って名前を呼ぶようになっていてくれれば
彼の特性は、周りに愛される味のある子供に育っていくわよ」

と言っていた時・・・


突然、
公民館に、50代ぐらいのオジサンが入ってきて
「中学生に光合成の話をしてやったけど、あいつらはぜんぜんわかっとらん。
お前らも、(わたしたちのことを指して)俺の光合成の話をしてやっても
わからんやろ。」
と入ってくるなり、なぞな話をしてきて
「俺は、7年前は、こんなにいい体格やったのに、いろいんないやなことをされて、
こんなに痩せてしまって、これ見てみろ(自分の写真を見せる)
こんなに太っとたんだぞ」
といってきた。

なにかと場を、濁して、オジサンは帰って行ったのだが、
館長が
「あの人も、自分の言いたいことだけを言う人になっちゃった。
頭がいいのに、かわいそうな人よね。」
といわれた。

わたしが、
「あの人も、K君ぐらいの若い時に、みんなに分かってもらっていたらよかったですね。」

「そうよね・・・」

といって、わたしは公民館から帰った。

帰りながら思った。
小学生のK君と、50代のこのおじさんの違いは、
特性的には、似たようなものを持っているのだが、
違いは、K君は、「子ども」おじさんは、「大人」ということが
とても大きな違いだと思う。

そして、
K君の特性を、現在、少なくともこの地域の人たちで、
分かりあおうとしている。
その上、K君にとっていい手法を、教員ではなく、地域の大人が
考えてあれやこれやアイデアを出して行っているところが違う。

大人になってしまったおじさんに、
地域の人が、あれやこれやとアイデアなんか出さない。
あえて、おじさんが問題行動をして地域に支障が出てしまえば、
考え出すかもしれないけれど、
自分のことばかり言っているオジサンのことについて、
K君ぐらい、地域の人が考えるということは、まず、ないだろう。

そして、おじさんはこの地域から孤立していく。。。。


そういうことを踏まえると、
どれほど、
子どもの時から様々な年齢層を含んだ交流が重要なのかが分かる。
この地域に生まれ育っている子どもたちが一体どういう特性を持った子どもたちなのか
それを、同じ地区の大人たちは知るべき、いや、知っておかなければならない。

K君が、学校を卒業してしまって、
この地域に社会人になって暮らしていくようになったとき、
彼の特性を分かったご近所さんがいた方が、彼は暮らしていきやすい。

生きづらさは、彼自身がつくっているのではなく、
身近な人の無関心から、生きづらさは生じてくるものだ。
地域の中で、交流するだけでも、生きづらさは、緩和されていものではないだろうか。

それは、そういった特性をもつ子どもに関わらず、
どんな人も、地域の人に自分を知ってもらうことは、
安心して暮らせる根幹となりえるのだと思う。