ものさし

先日、友人から送られてきた一通の手紙。

その文章がとても印象的だったので、
自分なりにまとめながら書いてみました。

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人はものさしを持っています。
人の価値を計るためのものさしです。

人は、生まれたときからものさしをもっているわけではありません。

頭がいいと先生に褒められます。
すると、「頭がいいということは、立派なことなのか」と判断します。
そういうこと積み重ね、体験から学び、人は次第にものさしを作っていくのです。
それは、それぞれ人の人生経験によって、ものさしづくりには、差ができてきます。

ものさしで、人の能力評価することは、社会生活を営む上でおおいにあります。
しかし、
ものさしだけにとらわれてしまったら、
能力を判断するだけではなく、人の人格までも、自分の持っているものさしで判別しようとするのです。
また、
そういう人が多い場所で育った子どもも、また、その人たちと同じように
人の人格をものさしで判断するようになります。

例えば、その人にとって、頭のよしあしがものさしだったとすると、その人の育った環境や態度がどうであれ、
頭の悪い人を馬鹿にします。
それは、同時に、自分より頭がいい人を恐れもします。
ものさしを使って頭のよしあしを測るのは他人ではなく、自分も含まれ、
自分より頭のいい人を前にすると、自分で自分自身を馬鹿にしてしまいます。

相手をものさしで計って、自分よりその人が上なら価値があり、下なら価値がない。

その人は、建前ではきれいなことをいっているかもしれないけど、
心底では、自分よりも上の人に屈しているのです。


ものさしに支配された人が苦手にするものは、ものさしに支配されていない人です。
ものさしで、自分を計らず、自分そのままを幸せに思っている人です。
皮肉なことに、ものさしを気にしない人は、
他人のこともものさしでジャッジしないので周りに愛されます。
そういう人に出会うと、通じるはずのものさしの比較が通じず、
どちらが上か下かもわからなくなって、戸惑ってしまいます。


ものさしで、判断する人は、他の人から愛されることも、
「自分は○○だから自分は愛される価値がある。」
「○○より、できるから自分は愛される。」
と、なんらかの根拠を探そうとします。
ものさしを使って価値づけようとする行為は、
そうやって何かに根拠を探している限り
自分を愛することはできません。
本質的な肯定は理由も根拠もいりません。


自分を愛せない人は、他人に愛してもらうために、
他人や世の中に適応することに人生をささげます。

気づいたときには、手にしてしまったものさしで、
比べることに支配され、人を計り、自分さえも計り、その行方に一喜一憂し、
自分が作ったものさしに支配された人生を過ごしてしまうでしょう。

自分を愛するためには、自分と対峙し自分の本質を肯定するしかありません。

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この文章は、
この最近、色々なことに汚染されて、自分を見失いつつある私には、
いい刺激のある文章でした。


もっと、若いときは、あんまりガチガチ先入観はなかったけれど
こんなわたしでも
アラサー世代になってくると、
やっぱり、人をものさしで見てしまいがちになっている自分は感じます。
それが悪いことばかりではないのですが、

相手の、本質を知りたいと思うときなど、
この自分のものさしとの戦いですね。。。

自分がもっている常識など、時に崩してしまわないと、
対峙できない相手もあります。

まだまだ、いろいろな見解や経験をして、
幅広い見方ができる人間になりたいものです。。。。