なんだか無性に思うこと

この最近、
パラリンピックのことばかり書いているのですが、
先日、ある競輪選手の読売新聞に出ていた記事がとてもよくて、
うろ覚えなのですが、
書いておこうと思います。
「障害があるかないか、
それが問題なのではなく、
自分にある能力をあきらめることなく発揮することが、
僕に与えられた使命」
だと、書いてあったように思います。
大変、いい文章だなと思いました。

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この最近、
少しのことでなんだかんだと障害名をつけたがる傾向があるとおもう。
特に、発達障害に関してがひどい。
専門家でもないのに、
まるで、占いか、血液型を当てるのかと同じ感覚のように、
簡単に日常会話で、
「あのひと、アスペルガー?」
とか
「きっと、ADHDなのよ」
とか、ヒソヒソと・・・・いう。



そしてまた、
それを言われた人も、自分の自己肯定感が低くなり
自信を持って、自分を発揮できなくなるどころか
悩んでいる・・・・。

まったくもって、
悩んでいる方の話を聞くたびに、
行き場のない気持ちが沸く。

どう、他人から言われようと
「根拠のない自信」
を持っていたっていいとおもう。
日本人は、そこが少し足らない。
それは、障害があってもだ。


日本人のよさは、
他人を思いやる心に長けているところ。
それは、4年間の海外生活を通してはっきりとわかった。

しかし、
日本人同士では、
せっかくいい長所だったのに、
相手の態度や、相手の気持ちばかりを、とりはかり過ぎになってしまって、
相手の気持ちが読めなかったりしたら
・・・はい、アスペルガー
相手の話を聞いていなかったりしたら
・・・はい、ADHD
と、ほんと軽々といってしまう社会になってしまったのか・・・・。

そして、日本の社会は、そこまで、決めてかからないといけないのか????

早期発見、早期療育がいいのかもしれないが、
ある子の例を挙げると
どこかに、
「ぼくは、○○だから・・・××ができなくてあたりまえ」
という、障害名を逆手にとって、はじめからチャレンジしようとしない子も、
実際いる。

わたしは、大学生のときに
『障害者問題を考える会』
というサークルに入っていました。
かといって、そんなだいそれたことをするわけでなく、
いろんな問題について、話し合ったり、介護をしたり、
障害者の方とキャンプしたりしていたサークルだ。

そのときに、
ある障害者の方にいわれた言葉が今も、頭に残っている
「あんたらは、まだ若いから、おれらのような障害を持っている人をみたら、
何かをしてあげんといかん・・・とおもっとるかも、しれんけど、
そうじゃないんじゃ、
障害者の中には、その保護に怠けて、何もせんやつだっておる。
そんな努力せんやつに、手を差し伸べる必要はない。
障害者だって、何かをしようと思えば、何かはできるんや」
と、あるおじちゃんが、言ってくれた言葉が今も時々思い出される・・・。

明日、
その大学時代、同じくサークル活動でお世話になった、
キンジスのおんちゃんに、会いにいってこようと思っている。
このおんちゃんは、わたしが在学中に
「リエ、水彩が教えてくれ」
と、突然いわれ、みるみるうちに、上達して、
今では、かなり有名な水彩画家になってしまった。
その方の、個展が高知の星ヶ丘アートビレッジで開かれている。
http://hoshigaoka-art.at.webry.info/201208/article_1.html

本当は、いけそうもないって思っていて
「南さん、いけそうもありません・・・」
っていうと、
「え〜、靴の絵描いたんぞ〜」
「りえ、こんのか〜」
といわれた。

筋ジストロフィーなので、年々体のさまざまな部分の動きが奪われていっている・・・
もう、今では、夜は呼吸器をつけて寝ていて、話すことはとてもできなくなっている。
昼間のわずかな間でしか、声を出すことができない。。。


靴の絵・・・・
っていうのは、
南さんが、まだガッポガッポと土の上を歩いていた。。。
その土が付いた靴。
それを描いてやるのが、次の展覧会の目標なんや
って、わたしが前回2年前に個展を訪れたときに言っていた。

その目標をきちんと果たされたのだ。


そこまで、言ったことを実現されたのだから、
わたし、見にいかんといかん。
と思い、
見に行くことにした。

南さんと同じように、わたしも、自分の人生の時間は、刻々とすぎていっている。
目標を掲げて、生きて言っている南さんと
ぼけ〜〜〜と、なにもしないで、生きていっているわたし。。。。

南さんの絵を目の前にすると
自分は、これで、こんな風に生きてていいのだろうか・・・と
思うのだろう。。。