内田裕也さんと希林さんから保育を考える

ロックンローラー 内田裕也さんが、釈放されて、
希林さんにとっては、離婚してもいいようなできごとなのに、
「彼に、純な面をかんじますから」(・・・だったかな)
というコメントをいっていた。
そして、内田さんのほうも
「結婚は、一回きりだとおもっていますから、離婚はしないでしょう
少なくとも、僕からはありえません。」
といっていました。

この二人の会話を見ていて、
”The ケッコン”
って意味を感じました。

希林さんのコメントからは、
内田さんが、どこまでも歯止めがつかない行動をとっていても、
どこか一点、ここぞ!という点にさえ惚れていればいいのだな・・・・

そして、裕也さんも
ここまでの自由ができるのも、もしかして結婚しているからだと思える。
結婚してなかったら、内田さんのほとんどの感情は、
ここまで鮮やかに広がりを持たなかったのではないかと思う。
「母」みたいな自分を管理してくれる人の下で、
自由にやれること。それを楽しんでいるように思える。

自由とは、ある程度条件がないと、自由を感じることができないと、
幼児の造形教室をしながら、思う。
楽しいこと=自由
かもしれないが、その「自由」のまわりの環境を考えてみたほうがよさそうだ。

保育所で、朝から帰るときまで自由保育のところがありますが、
ある程度、規制もしくは条件をつけたコマまわしをしなければ、
子どもが「自由」というものを感じることができない。

だらだら外で遊ばしっぱなし。だらだら部屋でおもちゃなどで遊ばしっぱなし。

積み木遊びなら、ある一定の形だけ・・・とかって条件を与えて、
遊ばせて見るとか、
ある目標を設定した遊びを展開していかなければ、
1日が子ども任せなんかって・・・もったいない・・・。

一定の条件を与えて遊ばせることが幼児のとき、必要だと思う。
自分が知りたいっと思う欲求になると、外からの知識を吸収しようとする瞬間だ。
しかし、外部からのなんの圧力もないと、
子どもは、自分、己の力だけでは、知識を得ることが困難だ。
ここでいう知識とは、体験による体にしみこむ知識のことである。


内田夫妻から、保育所の遊びの内容まで考えられるな〜って思ってしまいました。

内田さん、奥さん大切にしてください。